松田聖子(51)、酒井法子(42)ら多くのトップアイドルを育てた大手芸能事務所、
サンミュージックプロダクション(東京)の創業者で、
代表取締役会長の相澤秀禎(あいざわ・ひでよし、本名・相澤與四郎=あいざわ・よしろう)さんが
23日午後10時27分、膵臓(すいぞう)がんのため都内の病院で亡くなりました。
享年83歳でした。
デビュー直後の松田聖子さんらを自らの家に下宿させるなど
愛情いっぱいにタレントに接してきました。
入院中は、痛み止めの薬を打ち、意識がもうろうとする中で、
見舞客に気丈に応対。
最期まで、誰からも愛された相澤さんらしく振る舞った。
「人づくり」を信念とし、住み込み制度で数多くのスターを世に送り出した。
松田聖子さんをはじめ、86年に自殺した故岡田有希子さん(享年18)、
酒井法子らをデビュー前から東京・成城の自宅に住まわせ礼儀作法やあいさつの仕方などを一から教え込んだのです。
そんな相澤会長の訃報を受け、芸能界からは悲しみの声が相次いぎました。
松田聖子さんも「あまりの悲しみに、まだこの現実を受け止めることができず言葉になりません。今はただ、ご冥福を心からお祈りするばかりです」」とコメントを発表しています。
2009年に覚せい剤取締役法で逮捕された酒井法子さんも
ショックのコメントをFAXで発表しました。
「幾多の厚情を思い、痛惜の念でいっぱいです」と悲しみのコメント。
相澤さんが他界する2日前に病床の恩師に思いの丈をつづった手紙も送っていたそうです。
酒井はこの日「幾多の厚情を思い、痛惜の念でいっぱいです。
いつも太陽のように暖かな笑顔で励ましの言葉をかけ続けてくださり本当にありがとうございました」とコメントを発表。
酒井さんの相澤さんへの想いと相沢さんの人柄が伝わってきますね。
酒井法子さんが相澤さんの体調が悪化していると知ったのは1週間ほど前。
病院へ見舞いに行くことを希望したそうですが、
相澤さんの体調が著しくなかったため断念。
見舞いの代わりに手紙を書き、関係者が21日に届けました。
一連の騒動(覚せい剤逮捕事件)に触れ「ご迷惑をお掛けしました」などと謝罪し
「1日も早く元気になって頂きたい」と回復の想いが綴られていました。
【相澤会長のお父様の葬儀の際、遺影を持つ酒井法子さん】
関係者が相澤さんに読んで聞かせると、感激した様子で「うん、うん」とうなずいていたそうです。
中学3年だった85年12月から高校卒業まで約3年半にわたって相澤さん宅で下宿。
この間、相澤さんが「のりピー語」を考案し、これまでにないアイドル像を築いた。
09年の薬物事件を受けた解雇会見の時には、珍しく相澤さんが憤りましt。
「裏切られた気持ち」。
酒井は4歳で実母と死別、複雑な家庭環境で育ち「自分の息子には同じ思いをさせまい」と誓っていたのに、長男を裏切ってしまったからです。
サンミュージックによると、昨年11月、
東京女子医大の定期検査で膵臓がんが見つかったそうです。
そして入院。しかし手術はせず、
11月下旬に退院して抗がん剤治療を続けたのですが、
食欲低下による体重減で3月25日に再入院。
そして5月23日、亡くなりました…。
自ら発掘した歌手、西郷輝彦(66)のマネジャーなどを経て、
1968年にサンミュージックプロダクションを設立した相澤会長。
所属第1号の森田健作(現千葉県知事=63)ら多数のスターを輩出し、
“アイドルづくりの名人”と呼ばれた。
その半面、所属タレントに愛情をもって接することで知られ、
松田聖子、酒井法子らを高校卒業まで自分の家に下宿させるなど、
実の子供のようにかわいがってきたのです。
86年に所属歌手の岡田有希子さん(享年18)が所属事務所から投身自殺したのは
大きな衝撃でした。
相澤さんは会長室に遺影を飾り、命日には岡田さんに線香をあげ続けたそうです。
一方、09年9月に酒井が覚せい剤取締法違反で逮捕された際、
管理責任を取り会長を辞任(10年10月に復帰)。
心から更生を願い、陰ながら見守っていたのです。
「温かい人」ですよね。
相澤会長も生前「この仕事は人間関係が命」とおっしゃっていたそうです。
【相澤 秀禎プロフィール】
相澤 秀禎(あいざわ ひでよし、1930年1月20日 – 2013年5月23日は、神奈川県横須賀市出身の日本の実業家。サンミュージックプロダクションの創業者で初代社長。本名は相澤芳郎。
森田健作・野村将希・桜田淳子・松田聖子・香坂みゆき・早見優・岡田有希子・酒井法子・安達祐実といったスターをスカウト・育成し、デビューさせた。自身のブログでは生涯マネージャーを標榜し、全国の事務所オーデションには自ら出席する等していました。
かつての商売敵であった貫泰夫・T&Cミュージック社長も自らのブログのなかで
「相澤さんの所ほどアットホームな事務所はないだろう」と述べているように
女性タレントの面倒見のよさで知られ、
松田聖子・岡田有希子・酒井法子をデビュー当時に自宅に引き取り
公私にわたり面倒を見ました。
また1970年代当時渡辺プロダクションが年功序列の給与制を敷き
吉本興業等が完全歩合制を敷く中で、基本給にプラスして歩合給も支給していたのです。
稲増龍夫著「アイドル工学。」のインタビューの中で
「ただテレビに出たいだけというような志の低い子は採用しない」と述べるなどタレント育成に厳しい一面も見せていました。
2009年9月、酒井法子さんが覚せい剤取締法違反(所持)の罪で起訴された件を受け、
管理責任を取って会長を辞任、代表権のない相談役に退くも2010年10月には会長に復帰している。
2013年5月23日の22時27分に、膵臓癌のため入院先の東京都内の病院で死去。
晩年は脾臓と肝臓に腫瘍が見つかり、通院を繰り返していました。83歳没。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。